送信日時: 2002年11月30日土曜日 20:16

国家主義と日本人としてのアイデンティティー
目黒真実


 今の日本は、21世紀を迎えるにあたって、未だ経済不況から抜け出せず自信喪失に陥っており、日本の未来図への絶望感から、日本人は「アイデンティティーの喪失」に陥っていると言われる。そこから、日本の教育改革問題などでも再三取り上げられているような「日本人としてのアイデンティティー、国を愛する心」を強調する風潮が生まれている。

 本来、アイデンティティーという言葉は、「自分が自分であることや自己の存在価値に対する自覚」といった意味を表しているが、日本人は、どちらかといえば、所属集団内の文化を体得し、集団の規準に同調して行動し、その集団の一員であると認められることで心理的な満足や安定を得て、それをアイデンティティーと呼んでいたように思う。こうした準拠集団に依拠したアイデンティティーというのは、精神科医フロイトによれば、自我の統一を守るための「同一視」という防衛機制の一つと言える。例えば、会社と自己を同一視する企業戦士、偏狭な愛国主義と自己を同一視する国家主義者、特定の宗教団体と自己を同一視した人間がそうである。しかし、アイデンティティーとは個に立脚したものであり、外の集団に心理的に依存した帰属意識ではない。いわんや、国家や企業や宗教集団の中での「肩書き」でもなければ、収入の多少、知名度や名誉の有無でもない。この種のアイデンティティーは、何かの理由でその集団が崩壊したり、集団の中で自分が疎外されたり、正当に評価されないなどの事態が生じると容易に壊れてしまうものである。その例は、会社からリストラを宣告されたサラリーマン、「神国」日本の敗戦に茫然自失状態に陥った多くの日本人など、枚挙にいとまがない。

 最近でも、このアイデンティティーという言葉が民族という単位で語られ、それが国家主義に結びついて、内戦にまで発展してしまった国があ る。旧・ユーゴスラビア社会主義連邦共和国だ。チトー大統領という強力な指導者の共産主義政策(平等の原則)下で、民族とい うアイデンティティーを強く主張することのなかった旧ユーゴの人々がいた。しかし、冷戦後は民族国家主義というナショナリズムが世界、ヨーロッパで興隆し、チトーの死後、旧ユーゴの連邦を構成していた各共和国が独立を主張し始めたのである。 そして、かなりの民族融和の進んでいたこの国では内戦が起き、ボスニア紛争の際には、異常といえる 憎しみ合い、殺し合いに発展してしまった。だが、1984年の冬 季サラエボ・オリンピックの頃までは、それこそユーゴスラビア人というアイデンテ ィティーが普通だったのである。

 そもそもナショナリズムと国家主義は異なる概念である。例えば、中国人は海外に移住しても、何代にもわたって母語と文化・風習・伝統を受け継ぐが、日本国から離れた日本人は移住して三代で母語さえ失ってしまうと言われる。これは日本人が国家依存の日本人意識はあるが、漢民族のような国家から自立したナショナリズム(民族と自文化の自覚)を持っていないことを表している。ナショナリズムは言語とともに子々孫々受け継がれる文化であり、国家を離れても存在し続けるものなのである。また、昔から異なる民族と文化は同じ社会の中で共存してきた。それが流血の民族紛争となるのは、多数民族による少数民族への圧迫が存在したり、ナショナリズムが国家主義と結びついたときなのである。ナショナリズムや愛国心が国家から強制されるときは警戒した方がよい。グローバル化が進む社会では、とかく反動として国家主義が勃興しがちであり、自然なナショナリズムが国家主義に組み込まれる危険が高いからである。

 さて、日本はよく欧米諸国から「閉鎖的だ。保守的だ」と批判されてきたが、果たしてそうだろうか。おそらく、それは従来の日本人の思考パターンというものが、非言語コミュニケーションを中心とするものであり、それが欧米の契約概念や言語コミュニケーションを中心とした論理的な思考パターンと異なることから生じていると思われる。確かに、日本人はいくら生活を欧米化しても、「畳とみそ汁」の生活を捨てない。「国造りの祖」とされる天皇家は2000年以上続いている。その意味では保守的であるが、私は日本文化は欧米文化以上に、多様な文化を受け入れる包容力があり、この柔軟性や受容性こそ日本人の美点であると考えている。それは日本の歴史を振り返ってみると分かる。日本は弥生時代以来の固有の文化をもっているが、同時に様々な文化が融合された文化であると言える。古くは中国や朝鮮から文化が伝来し、中世ではオランダやポルトガルの文化が、近代ではフランスやドイツから、現代ではアメリカから来た文化や学問などを吸収し、日本流にアレンジし、個人レベルの生活へと取り入れる知恵を持っている。

 また、日本の商品は品質がいいのが、独創的でないとか、オリジナルのアイディアがないとか中傷されるが、日本人は今あるものをより良くするための努力は惜しまない。日本は吸収した文化や技術をより発展させ、高度な物にして他の国へ輸出したり、元の国へ逆輸出したりしてきた。特に「小さく、便利にする」発想と技術は世界一である。これも独創性のひとつなのである。

 では、こうした日本人の特性や精神文化の基層に流れているのは何だろうか。日本の茶道の始祖も言える千利休の「花は野に咲くように」という教えを思い出す。茶道では茶室に飾る花は「生ける」のではなくて「入れる」という。「花は野にあるそのままが美しいのだから、必要以上に飾り立てるのではなく、野にあるがままに入れるのがよい」という。「欧米に追いつけ追い越せ」と強国になることばかりを追い求めた一時期(明治時代から戦後高度成長期まで)を除けば、日本人は昔から自然を破壊するのではなく、自然に畏怖の念を持ち自然と共生する大切さを知っていた。また茶道には、客人に対して「一生に一度限りの出会いを大切にする」という「一期一会」の考え方があるが、これは現代語の「顧客満足」の基礎になる考え方に通じる。そして、この自然への畏敬と相手(顧客)を中心に考える心が結びついたとき、「小さく、便利にする」技術を生み出し、省エネルギー・省資源の小型製品を生みだしてきたと言えるのである。これは世界に誇るべき日本の国際社会への文化的貢献である。

 とすれば、今叫ばれている日本人の「アイデンティティーの喪失」とは何か。正確には経済大国日本の誇りとか、一流企業の社員であるといった肩書きに依存したアイデンティティーの喪失である。私に言わせれば、日本人がこうした驕りと隣り合わせの「精神バブルの夢」から醒めるのはいいことである。なぜなら、ここから日本人の「自分らしさ」を探すほんとうの旅が始まるからである。そもそも、アイデンティティーというのは、国家や企業によって外から与えられるものでもなければ、声高に他者に主張したりする性格のものではない。それは「自分らしさ」であり、いかなる人に対しても、高慢にもならず卑下もせず、あるがままに接することができる「静かなる自尊心」である。この「自分らしさ」を考えるとき、もう一度、日本人としての自己を、日本の良さを発見するのであれば、それこそが「日本人としてのアイデンティティー」ではないだろうか。私は、日本はこの国際社会の中で、「野に咲く花のように咲けばよい」と考える。経済大国の地位にしがみつく必要もなければ、「支配・被支配」というパワーゲームに参加する必要もない。技術貢献を通して、黙々と「協働」や「共生」の国際社会を目指す道を歩めばいいのである。これこそ、もともと日本人が一番得意としている分野であり、「日本人らしさ」であろう。


日本語教材の日本語駆け込み寺 参拝口へ戻る


inserted by FC2 system