「日本近現代史」(過去に目を閉ざす者は未来にも目を閉ざすことになる)の著者、川手晴雄さんのご紹介
 明星学園高等部社会科教諭。まことさんとは学生時代から反戦運動や、武蔵野三鷹労働相談センターや精神障害者の作業所づくりなどの地域運動を一緒にしてきた戦友だそうです。反骨精神のある社会科の先生で、30年以上も「反安保三鷹ちょうちんデモの会」の中心メンバーとして活躍しています。
 

§ はじめに

 日本の近現代、つまり江戸時代の末、19世紀中期から現代、この時代の歴史は、まさに「現代日本」を形成した歴史であり、現代の日本社会、および日本人を理解する上で欠くことにできない、きわめて重要な歴史である。およそ150年間にあたるこの時代に、日本人はそれまでの伝統的な社会や習慣、価値観を欧米のそれへと転換し、アジアで最初の「近代国家」を作ることに成功した。そして物質的豊かさや民主主義の諸制度といった近代化の果実を手に入れた。

 長い間日本の社会では、この近代における日本の改革を「偉大な先達の仕事」として評価してきた。しかし、21世紀を迎える現在、日本ではこの近現代の日本の進んで来た道を再評価しようという動きが急である。

 なぜならば、その過程で日本が失った物も実は多かったことに日本人自身が気づき始めたからである。近代化の過程は実は「侵略戦争の歴史」であったし、経済大国への道は、実は「自然破壊」と「伝統的文化、習慣、社会」の崩壊でもあったのである。特に、1945年の敗戦後の日本社会は、焦土の中から、短期間に世界有数の経済大国へと成長した。しかし、その短期間のうちに、日本の農村は崩壊し、美しかった日本の山、川、海は無残にも破壊されてしまった。また、1990年のいわゆる「バブル経済の崩壊」以来の長期不況は、国民の生活をも根底から揺るがせかねない不安を国民に与えている。

 かって、アジアの友人として、長い間尊敬しあってきた友邦の人々との信頼もこの150年に失われてしまった。今日本人は、ほんとうに日本の進んできた道は正しい選択だったのだろうかと考え始めているのである。そうしなければ、未来を展望することができない…そういった転換点に立たされているのである。
 一つの展望が見え始めている。それは、ある意味では、日本の近現代150年とは逆の道筋である。アジアの友人との共生、共栄の道である。決して「大東亜共栄圏」でない共生、共栄の道である。工業と農業の共生、共栄の道である。グローバリズムの道でなく、民族自立と自立経済の形成の道である。そのためにはどうすべきなのか。そのこたえは、日本の近、現代150年の歴史の中にあるはずである。

 温故知新…歴史を学ぶことは、未来を展望することである。

 §-1 近代における世界
 日本の近現代史を書くに当たって、まず、近代における世界の様相を簡単に述べておきたい。なぜならば、世界の動きの中で日本の近代が始まったからであり、また、世界の動きが1国の歴史に大きな影響を与えるようになったのが近代とも言えるからである。

 近代とはいつからのことを言うのかは諸説あるだろう。一般的には、イギリス、フランス、アメリカに起きた「市民革命」という名の封建制社会を打倒し、民主主義社会を作り出した革命と、それに続く近代工業化社会を作り出した「産業革命」の二つの革命が起きた18世紀から19世紀後の社会を指している。しかし、私はあえて、それよりも時代を遡った15世紀から後の社会を近代と呼ぶことにしたい。なぜなら、ヨーロッパ社会において、近現代史の主役たる「市民」層の出現とそれらの力が強まったのがこの時代以後だからである。しかし、その様子について詳細に述べることはまたの機会にして、ここでは概略を述べるのにとどめたい。

 近代の夜明けは、ヨーロッパにおける「都市の発達」に始まる。ローマ帝国崩壊後の1000年にわたる中世ヨーロッパの暗黒を切り開いたのは、中世後期の商業都市の発達であった。そして、それは14〜15世紀のイタリアを中心にしていた。イタリア商人達は、アラビア商人達から東アジア(インド、中国)の特産物(絹、陶磁器、香辛料)を買い付け、それを広くヨーロッパ全域や北アフリカ諸国に売ることによって、巨万の富を蓄積した。これに支えられて花開いたのが「イタリアルネッサンス」である。15〜16世紀のイタリアにはその後の人類史に大きな足跡を残す偉大な芸術家、科学者が多数現れた。

 レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ティツアーノ、ガリレオ…・・それらはきら星のごとく人類史を飾る天才達であった。イタリアの繁栄を、当然のごとくヨーロッパの他の国々は羨望の眼差しで見つめた。イタリアの繁栄を自国の繁栄にできれば…・ヨーロッパ諸国の君主、貴族階級のみならず、庶民層までがそれを渇望したのである。しかし、そのためには東アジアの富を手に入れなければならない。イタリア人、アラビア人の手を通さずにそれらを手に入れることができれば、それが実現できることは誰もが知っていた。だが、誰もそれができるとは思っていなかった。東アジアへの道は閉ざされていたのである。その閉ざされた道をこじ開けたのが、ポルトガルであり、スペインであった。ポルトガル王ジョアン2世の熱情がついにアフリカ大陸を周回しインドへの道を切り開き、1498年、バスコ・ダ・ガマはインドへ到着した。ポルトガルの冒険に刺激されたスペイン王イザベル1世は、貧乏で無名のイタリア人船乗りコロンブスの野心と奇想天外な発想…・・地球が丸いという…・にかけた。1492年8月3日スペインのバロス港を出発したコロンブス率いる3隻の船団こそが近代社会の幕開けを告げたのである。

 2ヶ月と少しの航海のすえにたどり着いた大陸、アメリカ大陸こそヨーロッパ社会に巨万の富を生み出す源泉となったのである。スペインはアメリカ大陸でタバコ、サトウキビを栽培し、銀山を掘った。そこで働かされたのがインディオであった。しかし、インディオの酷使とヨーロッパから持ち込まれた伝染病によって、インディオ人口が急減すると、スペインはその代替労働力としてアフリカ黒人を奴隷としてアメリカ大陸に運んだ。

 悪名高き「奴隷貿易」である。15世紀から19世紀までの400年にわたって続けられた奴隷貿易によって、アフリカは決定的な打撃を受け21世紀の今日まで立ち上がることができなくなった。それに対してヨーロッパの国々は大西洋を挟んだアメリカ、ヨーロッパ、アフリカを結ぶ「三角貿易」(奴隷貿易)によって巨万の富を蓄積していったのである。

 アメリカ大陸からの特産品売買、アフリカ大陸からの奴隷売買、そして、アメリカ大陸で量産された銀はアジア貿易での貿易通貨として、アジアの特産品貿易においてもヨーロッパに富を蓄積させたのである。15世紀から19世紀のヨーロッパの世界貿易における成功はヨーロッパ社会にも大きな変革をもたらした。商人層の力が増大したことである。そのことは、それまでのヨーロッパ社会の身分制度を基本とする封建制社会を根底から揺るがした。それがキリスト教における「宗教改革」であり、18世紀に始まる「市民革命」である。これらの革命によってヨーロッパ社会の中核として台頭した市民層(商人、資本家)は、蓄積した富を産業の発展に投資した。その結果、ヨーロッパにおいて新たなる産業、工業の大発展が始まったのである。

 産業革命と呼ばれるこの工業の大発展は、世界をヨーロッパ工業国のための原料供給地と工業製品販売地へと変えてしまった。アメリカ大陸北部は、イギリスのための綿花栽培地となり、インドも同じ道をたどった。アフリカ諸国は奴隷供給地から工業原料供給地へと変わった。世界で最初に産業革命を行ったイギリスをはじめとして、その後フランス、アメリカ、オランダといった国々は、それらの工業原料供給地や工業製品販売地を求めて、更に世界に乗り出していった。19世から始まるこの「土地争い」は当然のこととして、狙われた国々への侵略戦争とそれを争う争奪戦争を生み出した。この戦争の中で、アフリカ、アジアはことごとく、それらの国々の植民地とされてしまったのである。19世紀とは、世界でもいち早く産業革命を成し遂げたヨーロッパ先進工業国の植民地獲得戦争の時代であったのである。これらの国々のことを近代史では「帝国主義国」とよび、それらの国々の起こした戦争を「帝国主義侵略戦争」と「帝国主義国間の植民地争奪戦争」とよぶ。19世紀から20世紀に起こった戦争のほとんどはこれである。ヨーロッパ列強諸国と呼ばれる、帝国主義国が最後に狙ったのが、アジアの超大国「中国」であった。1840年のアヘン戦争をきっかけとして、列強諸国の触手は中国に迫り、そして、300年の鎖国の中に「太平の世」を満喫してきた日本にも帝国主義の波が押し寄せてきたのである。


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