送信日時: 2002年10月19日土曜日 10:16



5.分野別小論文と具体例
(1)「異文化交流と国際化社会」
 以下、「異文化交流と国際化社会」の項目に関連するテーマについて、小論文例を数点載せておきます。

1) 留学試験・記述問題
 記述問題は、「どちらの意見に賛成か」、「どちら(どれ)を選ぶか」の形がほとんどなので、以下のように、あらかじめ基本の型を決めておくといいでしょう。以下が基本型と400字記述式問題の段落分けと、およその字数の目処です。これに従って書けば、自ずと論理的な文になります。
  ★ 序論:意見    (起≒30字)
  ★ 本論:理由    (承≒100字)
       具体例   (転≒200字)
  ★ 結論:結論要約  (結≒50字)
 これは小論文で言えば、「結論提示型」と言われるものですが、短時間で書くかなければならない記述問題ではこの「型を使って書く」のがベストです。

問題1
 あなたは「自由と民主主義」などの価値観は、全世界・全民族が共有すべき普遍的価値観であると考えますか。あなたの意見を400字程度で書いてください。

解答例 賛成(396字)
 私はこの意見に賛成である。
 なぜなら、「自由と民主主義」は単に西欧文化ではなく、世界人権宣言にも宣言されたように人類普遍の価値だからである。そして、「自由と民主主義」の価値観の根底にあるのは基本的人権の思想である。
 例えば、ある独裁国家が非道な人権侵害を行い、民族浄化などの目的で虐殺を行っているとき、国際社会がそれを止めることができないとしたら、どうなるか。文化多元論とか内政干渉を理由に、国際社会が何もできないとすれば、「命の尊厳」を誰が守るのか。
 アラーを信じる人もいていいし、キリストを信じる人もいていいし、仏教徒もいていい。しかし、「命の尊厳」を否定するような無差別テロなどの行為をどうして認めることができるだろうか。こうした国際社会の合意形成は、共通の価値観があって初めて可能なのである。
 従って、私は「自由と民主主義」や基本的人権の思想は、全人類が共有すべき価値観だと考える。

解答例 反対(399字)
 私はこの意見に反対である。
 なぜなら、「自由と民主主義」や「議会政治」が常に正義を体現するとは限らず、人々に幸せをもたらすとは言えないからである。
 例えば、アメリカのベトナム戦争介入は「自由と民主主義」の名の下に議会の承認を得て行われたが、独裁国家と呼んだ北ベトナムのホーチミン・ベトナム労働党政権をベトナムの人たちは支持し続けたし、アメリカの行為は侵略と国際世論からも断罪された。「自由」は無原則なご都合主義に、「民主主義」は衆愚政治に流れることもある。
 少なくとも、「自由と民主主義」の概念も異なった 価値体系の中では負の評価を受けることもあることは知っておくべきだ。多元的な視点によ る自文化の相対化こそ大切だと思う。自己の価値観を絶対化することが一番危険である。
 従って、私はいかなる一元的な価値の押しつけには反対であり、何を選択するかは、諸民族の自主的判断に委ねるべきであると考える。

問題2
 あなたの国の文化や習慣の中でぜひ日本人に伝えたいと思うのは、どんな文化や習慣ですか。一つ選び理由を挙げてあなたの考えを400字程度で書いてください。

解答例 笑顔(398字)
 私の国ネパールは貧しい。私の国から見たら、日本人は夢のような暮らしをしているのに、街を歩いている人々の顔に、私の国の人々のような笑顔がない。どうしてなんだろう。
 私の村は貧しい。学校はあるけれど、病院はまだない。しかし村中に笑いがあふれている。例えば、私がいつものように朝起きて鶏の世話をしていないのを知ると、近所の人がやってきて、「タパちゃんはどうしたの。病気なの」と心配してくれる。誰かの家に病人が出ると、村のみんなが農作業の手伝いをする。どの家も開けっ放しだし、勝手に入っても怒られたりしない。今の私はそんな故郷の村がとても懐かしくなる。
 どうして日本人は幸せそうではないんだろう。物が豊かになっても、人の幸せは増えないのだろうか。私の国には日本のような優れた輸出製品や文化施設はないけれど、いつも幸せな笑顔と助け合う心がある。それをぜひ伝えたいけれど、でも、どうしたら伝えられるだろう。

解答例 「礼」の心(398字)
 私は韓国の留学生だが、日本の大学生を見ていると、時々怒りを感じることさえある。それは彼らの多くが教授たちと校内ですれ違っても、お辞儀やあいさつをしようとしないことだ。また、講義中でも平気で携帯電話で話をしたり、お化粧をしたりしていることだ。私は日本の大学生にすっかり失望してしまった。
 私の国では教師に対する礼儀は子供の頃から厳しくしつけられる。まして逆らうことなど、私の国では絶対考えられないことだ。これを古い儒教道徳だと一笑に付す日本の大学生がいるが、それは誤った考え方である。なぜなら、欧米の大学でもこうした礼儀はきちんと守られているからだ。
 教師に対する礼儀は、古い道徳感ではなく、学ぶことへの謙虚さ、教えてくださる教師への感謝の気持ちの現れだからだ。真剣に学ぼうとする姿勢がないから、礼の心も生まれないのである。形としての礼ではなく、礼のもとにあるものを、もう一度考えてほしいと思う。

問題3
 「現代の民族紛争や国際紛争を引き起こす最大の原因は、民族・言語・宗教の違いなど、文化的要因である」という考え方があります。あなたはこの意見に賛成ですか、反対ですか。400字程度で書いてください。

解答例1 反対(397字)
 私はこの意見に反対である。
 なぜなら、これらの紛争は単に民族に特有の宗教や言語の差異から起 こるのではなく、主に経済・政治的理由から生じているからである。
 例えば代表例としてパレスチナ問題がある。「パレスチナ人」という民族概念も、「ユダヤ人国家」イスラエル誕生で放逐・棄民化された人々の共通の運命をてこに形成されたのであり、「ユダヤ人」対「パレスチナ人」の対立の図式も、「ユダヤ人」がパレスチナで国家建設を始めるなかでできあがった歴史的にも新しい事態にほかならない。それ以前のパレスチナは大半がイスラム教徒で、それにキリスト教徒とわずかなユダヤ教徒がいたが、人々は宗教や民族の如何に関わらず、アラブとして一体化して暮らしていたのである。
 従って、パレスチナ難民が安心して暮らせる民族自決権の回復が行われるなら、文化的・宗教的な価値観の違いは共存できるのであり、文化的要因は副次的なのである。

解答例2 賛成(398字)
私はこの意見に賛成である。
 なぜなら、これらの紛争は現在進行しているグローバル化が先進国が「効率」「平等」などの新しい価値観を世界各地に持ち込もうとするのに対し、各地の諸民族が民族特有の言語・宗教や社会システムを守ろうとするところから生じていると考えるからである。
 例えば、先住民族の資源主権、環境権、文化や伝統を守る権利を主張する運動がそうである。こうした民族集団の文化的アイデンティティ を求める運動が、伝統への回帰とも言うべき要素と自決要求を伴うのもそのためであ る。ここにあるのは経済的得失ではなく、「民族のアイデンティティのための闘い」と言うべきものである。
 従って、私は現代とは先進国発の市場経済のグローバル化と、少数民族や途上国の諸民族が欧米文化の「一元的な押しつけ」を拒否し、伝統文化と「民族のアイデンティティ」の確立を求める両者の文化抗争の時代、多文化主義への幕開けと考える。

問題4
 捕鯨論争はいまや資源などの科学面を越えて、食文化や動物観の違いの問題に移っています。今は食用としての商業捕鯨が一律に禁止されていますが、あなたは食用としての商業捕鯨の再開に賛成ですか、反対ですか。あなたの考えを400字程度で書いてください。

解答例 賛成(398字)
 私は商業捕鯨の再開に賛成である。
 なぜなら、動物観の違いはそれぞれの民族の文化の違いによるものであり、お互いが干渉すべきものではないからだ。
 例えば、反捕鯨国は鯨を聖獣視し「捕鯨は倫理に反する」と言うが、以前は欧米も採油を目的に捕鯨していたことを何と説明するのだろうか。石油の開発で鯨油の需要がなくなったとき、捕鯨をやめたのであり、人道的にやめたわけではない。
 また、牛を聖なる動物とするインドの人たちが欧米の食文化を「牛を食べるのは倫理に反する」と批判したら、どう答えるのだろうか。「我々の食文化に干渉するな」と抗議するだろう。同じように、日本には古来、鯨食文化があるのである。
 従って、鹿やカンガルーも増えすぎによる悪影響を防ぐため、間引きや食肉への利用が行われるように、持続的利用が可能な科学的に許容される範囲内での捕鯨は認められるべきであり、鯨の食文化も尊重されるべきであると考える。

解答例 反対(398字)
 私は商業捕鯨の再開に反対である。
 なぜなら、クジラは繁殖力が低いので、捕りすぎると資源の回復が遅いこと、また、クジラは経済的価値が高く、商業捕鯨を一旦認めると、乱獲されやすいからである。
 例えば、IWCで反捕鯨国が提出した国際的管理体制の整備、人道的捕殺方法の強化などの要求は過去の経緯から見ても当然である。というのも、1946年に「国際捕鯨条約」がワシントンで締結されたが、その後も乱獲が続き、クジラを絶滅の危機に追い込んだからである。
 また、私たちに「食文化への干渉」と言うが、IWCが原住民生存捕鯨を認めているように、各国の食文化を否定しているのではない。乱獲を防ぐための国際的管理体制が確立されないまま、商業捕鯨が再開されることに反対しているのである。また、間引きが必要なまでに鯨が増えているのかどうか、科学的に確定した生息数も合意を得ていない。従って、私は商業捕鯨の再開に反対する。

2) 大学受験小論文

問題1 テーマ式
 国際化社会のあり方をめぐって、日本では「異文化に開かれた社会へ」と言われる一方で、「郷にいれば郷に従え」(外国の人も日本に住んでいるからには、日本の風俗・習慣に従うべきである)という考え方が存在します。あなたは後者の考え方についてどう思いますか。
 あなたの意見を800字以内で書いてください。

解答例 反対(796字)
 この意見の趣旨が、私たち在日の留学生のように、異文化を持つ外国人が日本に住むときは、日本の風俗・習慣に従うべきであるという意味であれば、断固として反対する。
 なぜなら、各民族はそれぞれの文化を持つが、その中には自己の尊厳に関わる言語や価値観などのアイデンティティーに関わる事柄があり、これを捨ててまでその国の風俗・習慣に従えと言われるのは、人格的に「死ね」と言われるのに等しいからである。
 例えば、かつて日本は韓国に対する植民地時代に、日本語、創氏改名、神道などを我が民族に強制した。これは民族の屈辱として、現代の韓国の若者の心にも刻まれているし、永遠に消えることはない。「足を踏んでいる者には、踏まれている者の痛みはわからない」と言うが、言語や文化を奪われた民族の悲劇は日本人には決してわからないのである。だからこそ、私たちの小泉首相の靖国神社参拝や教科書問題に対する怒りもわかってもらえないのである。そして内政干渉などと言われるのだが、それは間違っている。植民地化された韓国は、当時の日本では内政問題だったのである。
 私は日本の風俗・習慣に従わなくてもいいと言っているのではない。外から強制されるべきものではなく、あくまでそれは本人の自主的判断に任されるべきだと言っているのである。私はカラオケで日本の歌を歌い、日本の漫画を読んで笑い、日本語で日本の友人と大学では話し合っている普通の韓国青年だ。しかし、それは強制されたものではない。私の自然な感情であり、日本人とのコミュニケーションには日本語を学ぶ必要があると感じたからに他ならない。これが戦前のように強制されたものであったら、日本の全てが嫌いになったことだろう。
 従って、私は「郷にいれば郷に従え」のような言葉は、私たち韓国人自身がお互いに語り合う場合にだけ許されるのであり、日本人から私たちに強制されるような問題ではないと考える。

解答例 賛成(797字)
 私は「郷にいれば郷に従え」という考え方に賛成である
 なぜなら、この言葉は中国語では「入郷随俗」であり、「人は住んでいる土地の風俗・習慣に従うのが処世の法である。」(童子教)という意味であり、多数民族が自らの文化を一方的に少数民族に強制するような同化政策を推奨したのではなく、文化が違うからこそ、民族が「融和」することの大切さを強調した言葉だからである。
 例えば、かつての国際都市長安は、東アジアのみならず世界各地の国々との異文化交流の中心地であり、仏寺、道観、イスラム寺院も共存し、諸民族も「融和」して生活していたが、その共通語は漢語であった。もし各民族が各言語と民族の文化に閉じこもって、閉鎖的小社会を作っていたのでは、異文化交流も国際化もないのである。現代中国もその伝統を受け継ぎ、少数民族の言語と文化を尊重する政策を採ってきたし、その考え方の基本は「民族融和」だった。漢民族主導であったことは認めるし、派遣された官僚には驕りや命令主義があったかもしれない。しかし、国としては「同化」政策ではなく、各民族の伝統や文化を尊重した政策を採ってきたのである。少数民族は「共通語」として漢語を学ぶが、各民族の言語を否定したことはない。民族の服装や食文化や独自の伝統も否定したこともない。逆に様々な優遇政策を採用して、少数民族の青年の大学進学の門戸を漢民族よりも開いたし、「一人っ子政策」も強制しなかったし、経済支援も行ってきたのである。
 そもそも文化の多様性を認めることと、文化共有は対立する概念ではない。人間の喜怒哀楽の感情に違いはないし、文化の違いもその表現の仕方の違い以上のものではない。異文化の違いを強調するよりも、人間としての共通性を自覚することの方が異文化交流には重要と考える。
 従って、私は異文化の違いを強調するよりも、異文化の「融和」こそ大切だという立場から「入郷随俗」の考えを支持する。


(2)情報化社会
 以下、「情報化社会」の項目に関連するテーマについて、小論文例を数点載せておきます。

1) 留学試験・記述問題形式
問題1
 インターネット上の男女の出会いを目的とする出会い系サイトで、異性の友だちを捜す若者が増えています。こうした出会い系サイトは売春行為の温床にもなることがあるため、社会にとって有害だという意見がありますが、あなたは賛成ですか、反対ですか。

解答例 賛成(391字)
 私はこの意見に反対である。
 というのも、明らかに売春斡旋を目的としたような出会い系サイトもあるが、そのほとんどはまじめに運営されているものだからだ。また、出会い系サイトというのは、私たちが日常生活では出会えないような人々との出会いを可能にし、異なる世界の人と触れ合うことも可能としているからだ。
 例えば、移動が不自由で同じ悩みを抱えた老人や障害を持った人たちが、出会い系サイトで知り合い、お互いが電子メールで交流し励まし合うきっかけを作っている。また、メールでの交流からまじめな交際に発展して結婚にゴールインした例も数多くある。売春や詐欺などの違法行為は、一人一人の倫理観の問題であって、出会い系サイトそのものに原因があるのではない。
 従って、出会い系サイトを十把ひとからげにして、有害だとするのは暴論であり、出会い系サイトが「出会いの場」として果たしている意義を見ないものである。

解答例 反対(398字)
 私はこの意見に賛成である。
 なぜなら、出会い系サイトの大半は「素敵な出会いが待ってます」のような異性の交際相手を捜す類のものであり、男女とも遊び感覚でアクセスするケースがほとんどだからである。もしまじめに異性の交際相手を捜すのであれば、出会い系サイトで捜すという発想からして間違っているのであり、電脳世界というのは虚構世界だと言うことがわかっていないのである。
 例えば、電脳世界は匿名の世界であり、どのようにも自分を装うことができる。マイナス面は隠せるし、嘘をついても責任を問われない気安さがある。こうしたゲーム感覚での交際こそ、電脳世界の特徴である。当然、一部では、隠然と「援助交際」を誘ったり、下着売買を呼びかけたりと、違法行為の温床にもなっている。こうした情報社会の持つ落とし穴に、もっと目を向けるべきだろう。
 従って、この種の出会い系サイトは、若者にとっても社会にとっても有害だと考える。

問題2
 ネット上でのマナーをネチケットと呼んでいますが、ネチケットにはどのようなものがありますか、また、それはどうして必要なのですか。400字程度で書いてください。

解答例 ネチケット(390字)
 ネチケットには、以下のようなものがある。
  1 個人宛の電子メールがである場合、相手の了解なく他人へ転送したり公開しない。
  2 誹謗中傷や、相手の人格全体を否定するような書き方をしない。
  3 他人の私生活上の事実や秘密・写真・似顔絵を電子会議室や電子掲示板上で公開しない。
  4 ネットで入手した文章や記事、写真などを無断で転載しない。
  5 他人の著作物から引用するときは、自己の文章と明確に区別できるように記載した上、引用した著作物の発言掲載場所、題名や著作者名などを明示する。
 ネット社会は確かに便利だが、その反面では、ネット社会特有の弊害を生んでいる。例えば、匿名性に伴う無責任さが誹謗中傷などの名誉毀損を引き起こしやすく、複製・コピーの容易さが著作権侵害を頻発させるなどの問題である。従って、ネット社会で守るべき最低限のマナー確立が必要となったのである。

2) 大学受験小論文
問題1
 知能ロボットの研究が進むにつれ、コンピュータと人間の類似点と相違点が次第に明らかになってきましたた。こうした問題を踏まえて、「人間らしさ」とは何かについて、800字以内で書きなさい。

解答例(796字)
 知能ロボットは、人より遠くのものを見、人よりもっと微細なものを見ることができるかもしれない。人より速く走り、空を飛ぶこともできるかもしれない。しかし、人間は「知情意」を備えた存在であるが、知能ロボットには「情意」は存在しない。人間によってプログラムされた行動様式で知覚し、行動するだけである。
 例えば、知能ロボットは感動や悲しみの涙を流すだろうか。親子の愛があるだろうか。恋愛をし、子供を産み、家庭を作り、老い、そして死んでいくだろうか。この死と愛に伴う愛別離苦の感情は人間だけが持つ世界である。また、人の知覚は自分の必要とするを選択して知覚することが可能であるが、知能ロボットの知覚は無差別であり、人が消去しなければ「忘れる」こともできない。試しに、満員電車の中でテープレコーダーで録音してみるといい。テープレコーダーは全ての音を無差別に記録するため、人と人の会話は雑音の中で聞き取れない。しかし、人間の耳はそれができるのである。
 今日、実用化が望まれる知能ロボットも多くある。身体障害者を援助するロボット、目の不自由な人の盲導犬にかわるロボット、病気で寝たきりの人を援助するロボットなどである。しかし、仮に性能のいい介護ロボットができ、食事の世話や排泄まで手伝ってくれるとして、この介護ロボットの世話になる老人は、「幸せ」を感じるだろうか。ロボットはあくまでも補助手段であって、人間のぬくもりをもったロボットは絶対にできないといって過言でない。仮に小説の世界のように、感情を持った知能ロボットが生まれたとしても、それはプログラムされた感情であり、類型化されたパターンをコピーしたものに過ぎない。
 つまり、知能ロボットと人間の違いは「情意」の有無にあり、人間は有限の生命、つまり「死」を自覚し、それ故によりよく生きようとする意志を持ち、喜怒哀楽に悩む存在である。これこそ、人間性なのである。

問題2 テーマ式
 今日、ネット社会は楽しく便利な反面、様々なネット犯罪も起こっており、ネット社会の功罪が議論されるようになっています。これらを踏まえて、よりよいネット社会を築くためにはどうするべきだと思うか、あなたの意見を1200字以内で書いてください。

解答例 (1195字) 
 20世紀、様々なメディアが現れては消えていったが、インターネットが本命であることには異論はないだろう。誰も今日進行する情報化社会、ネット社会への移行を止めようとは思っていないし、止めることもできないだろう。しかし、それは現代社会のあり方と密接に結びつきながら、功罪も含めて様々な影響をもたらし、次世代にも受け継がれていくことになるだろう。しかし、言えることは一つある。コンピューターも、コンピューター・ネットも、つまるところ人間の道具なのであって、どう使うかは人間にかかっていると言うことだ。
 まず、ネット社会は現代社会の産物だと言うことだ。例えば、人は長い間太陽が昇ったら起床し、沈んだら家に帰って寝るという生活を続けてきたが、このような時代には時計も電話も必要ない。それが、産業革命を経て、やがて分秒刻みのスケジュールの中を生きている現代に入ったからこそ、電話やファックスが必要となり、更に時間の制約を受けない電子メールのようなコミュニケーション手段が必要になったことだ。地球には今もゆっくりと自然と共に生きる原始的な部族共同体社会を営む人たちがいるが、どちらが人間にとって幸せなのか、答えは簡単ではない。少なくとも、生活が忙しくなって、幸せが増えたわけではないことは明らかだ。
 確かに、ネット社会は、従来の近所に住む人、同じ学校や職場に通っている人など、直接接する人の範囲でしか人間関係は生まれなかった時代から、言語の問題は残るにせよ、世界中の人々と知り合う機会を提供してくれた。また、電子メールという時間を気にしないで、お互いが空いた時間にメールの送受信できるコミュニケーション手段を提供した。短時間で必要な情報を検索し、保存し編集できるようになったし、ネット・ビジネスは流通を介さずに消費者と直接つなぐことを可能にした。やがて、知能ロボットが家事や介護を引き受けてくれるかもしれない。
 この利便さの裏には常に負の面が存在する。インターネットは集中管理ができないので、地位・学歴・身分・国籍などを越えた対等なコミュニケーションを実現したが、これらはネットが広い意味での匿名性に基づいている。しかし、この匿名性が迷惑メール問題、カード犯罪、トラップ(罠)サイトによる被害などのネット犯罪を生んでいる。情報の検索や保存・編集の利便さは、その反面で違法コピー問題を引き起こしている。また、ネット社会は国家や企業が情報を独占することを不可能にしたが、反面では、ハッキング行為に代表される不正アクセス問題を引き起こしている。
 これら功罪は、人間の意図や行為が生み出しているのであり、ネット社会が必然的産物ではない。技術そのものは中立的なのであり、使う人によって凶器にもなるのである。私たちが自覚しなければならないのは、私たち自身が変わるかどうかが、ネット社会の未来を決めると言うことである。

問題3 課題文式
 次ぎの文章を読んで、1〜2の質問に答えてください。
 1988年12月に起こった「ドクター=キリコ事件」では、匿名性が高く、何をしでかすかわからない未来のネット社会ヘのおびえもあって、マスコミは過敏に反応した。「ネットの演出した死の連鎖」などの見出しで、ネット社会が事件を引き起こしたかのような報道が多くなされた。テレビなどでは「自殺教の教祖」とか、「死の商人・キリコを探せ」などと騒がれた。
 ドクター=キリコ事件というのは、インターネット上の自殺をテーマとする掲示板で「自分にはお守りがある。いつでも死ねると思うとやっていける。お守りが欲しければ連絡ください」と青酸カリ(シアン化カリウム)を「お守り」に例えて自殺志願者らに販売していた事件で、インターネット上のホームページを経て宅配された青酸カリを飲んで女性が自殺した。次いで、女性が死亡したことを知り、送り主であるドクター=キリコ(札幌市北区の塾講師男性 27歳)も 青酸カリで服毒自殺した。
 こうしたマスコミ報道の中から、朝日新聞の98年12月27日付朝刊の社説を取り上げてみよう。
 「社会は自由になればなるほど、陰の部分もふくらむ。インターネットもいかがわしい要素を抱え込んでいる。そのことを前提にして付き合うべきではないのか。
 それは、社会の中の様々な情報網のひとつに過ぎない。そう考えれば、おのずと距離を置く姿勢も生まれよう。大切なのは情報の中身の吟味である。
 そうすると、目に見えたり手で触れたりできる身近な社会の存在が、あらためて重みを増す。そこで生きた情報のやりとりをし、人間同士のつながりを再構築する必要がある。
 毒物とみられるカプセルを送られた女性の一人は飲む寸前、父親に止められて、自殺を思いとどまったという。仮想現実の世界から、家族の手で現実の世界に引き戻されたのである。
 人のこころが生と死の間で揺れ動くとき、生き抜こうとする力がどこから生まれるのかを考えさせられる。現在の社会は明らかに転換期にある。若い人だけでなく、中高年も悩んでいる。わずらわしい現実や、人間関係から目をそらしたくもなる。
 そんなとき、インターネットの世界は、手軽な逃げ道に映りがちなのかもしれない。だが、そこに埋没したところで、出口は見えまい。 」
 だが、実社会とネット社会の関係というのは、一方を現実世界、他方を仮想現実と、二元論的・対立的に割り切って考えることのできるようなものだろうか。
 例えば、自殺した女性はドクター=キリコの掲示板にはアクセスしておらず、彼女の友人から間接的に薬を受け取っていた。ドクター=キリコは薬の売買にネットをほとんど使わず、むしろ電話などを使って連絡を取っていた。これだけ見ても、いったいどこまでが「ネットの演出した死の連鎖」なのか、はっきりとしたことは言えないことがわかる。
 事件発覚後のドクター=キリコの掲示板では、インターネット名物とも言える匿名の人間からの攻撃的発言や罵詈譫謗は全く見られず、ドクター=キリコによって救われた人々からの感謝の念や哀悼の意を表明する書き込みが溢れたという。事実、ドクター=キリコは自殺志願者が青酸カリを所持することで極限状況をつくる一方、携帯電話番号を公表し、いつでもケアできる態勢を整え、自殺を抑止しようと試みていたのである。

問題1
この文章を参考にして、マスコミ報道の問題点について、あなたの意見を300字程度にまとめてください。

解答例 (297字)
 「自殺教の教祖」とか、「死の商人・キリコを探せ」などという見出しからして、商業主義が生むセンセーショナリズムに陥っているものと言わざるを得ない。読者が飛びつくような見出しにして、興味本位にかき立てる。しかも、報道の基本である事実確認はおざなりだ。
 そもそもこの事件の本質は、ネット社会にあるのではなく、これほどに多くの人たちが自殺を思い詰めているという現実にあり、事実、1999年の自殺者が二年連続で三万人を越え、過去最悪のペースとなっているのである。どうしてそれに筆を向けようとしないのか。それは、ドクター=キリコへの感謝の念や哀悼の意を表明する書き込みが溢れたという事実からも明らかなのだ。

問題2
朝日新聞の98年12月27日付朝刊の社説のネット社会に関する意見に対して、あなたはどう思いますか。あなたの意見を400字以内で書いてください。

解答例 (396字)
 私は朝日新聞の記事は、「現実世界=善」「ネット世界=仮想現実=悪」という誤った認識に立っていると考える。
 なぜなら、ネット世界は現実と対立したものでなく、現実を反映したものであるからだ。確かに匿名性のネット世界は真実も虚偽も混在しているが、その情報を発しているのは生の人間であり、現実世界からの「逃避や代償」などのフロイトの言う防御機制が起こるのは不思議なことではない。
 ネット世界を虚構とし、「父親に止められて、自殺を思いとどまったという。仮想現実の世界から、家族の手で現実の世界に引き戻されたのである。」という例を挙げて現実世界の重みを強調するが、この現実世界こそが、一人の女性を自殺に追い込んだ事実を語ろうとしない。ドクター=キリコによって、自殺を思いとどまった多くの人がいることも語ろうとしない。
 私は、ネット世界もまた、もう一つの現実であり、人間の心の世界を投影していると言いたい。


(3)「環境」
 以下、「環境」の項目に関連するテーマについて、小論文例を数点載せておきます。

1) 留学試験・記述問題
問題1
 「地球温暖化を防ぐために、できるだけ電気を使わない生活をするべきだ」という意見がありますが、あなたはこの意見に賛成ですか、反対ですか。400字程度で書いてください。

解答例 賛成(384字)
 私はこの意見に賛成である。
 なぜなら、地球温暖化の最大の原因は、今日の大量生産・大量消費型社会にあり、「消費は美徳」とする風潮や、エネルギー浪費型のライフスタイルにあると思うからである。
 例えば、自動車がなければ本当に生活できないのか。クーラーがなければ生きていけないのか。携帯電話がなければ、人はコミュニケーションできないのか。真夜中まで街のネオンは灯っていなければならないのか。おそらく、あればあったで便利だろうが、なければないで生きていけるはずだ。しかし、水・空気・土地・太陽・植物といった自然が壊れたら、人は生きていけない。人の欲望には限りがないが、自然は有限なのであり、どこかで欲望を自制することを学ばなければ、人類もまた恐竜の二の舞になるだろう。
 私は「節約こそ美徳」と考える。従って、「できるだけ電気を使わない生活をするべきだ」という意見に賛成である。

解答例 反対(389字)
 私はこの意見に反対である。
 なぜなら、私の国中国のように、開発途上にある国々に住む人々にとって、この意見は「発展の権利」を奪うことに等しいからである。また、途上国には先進国の人々が享受している豊かな暮らしを求める権利はないと言うのに等しいからである。
 例えば、石油省消費量一つ取ってみても、中国人一人当たりの石油消費量は、アメリカの7分の1に満たない。先進国の人々は、今も地球の3分の2のエネルギーと資源を消費し続け、豊かさを享受している。だが、中国も内陸部に行けば、家庭に送る電気も十分に供給できないため、未だランプを使っている地域もある。まして、クーラーに至っては、都市部でもまだ限られた家庭にしか入っていないのが現状である。
 いずれにせよ、こうした途上国の現実を無視して、できるだけ電気を使うなという意見は、著しく公平さに欠けている。従って、私はこの意見に同意できない。

問題2
 あなたは開発途上国で深刻化している公害問題の解決のために、最も大切なことは何だと思いますか。以下の三つの中から一つ選んで、400字程度で書いてください。
  1 人々の環境問題に対する意識の向上
  2 途上国政府が開発最優先政策を改めること
  3 先進国からの環境ODAや技術援助

解答例1 人々の意識(398字)
 私は人々の環境問題に対する意識の向上が最も大切だと思う。
 なぜなら、どこの国でも公害問題は被害者や住民が立ち上がり、行政や企業に解決を迫り、その闘いの中で「環境権」を勝ち取ってきた歴史があるからである。また、環境よりも企業利潤や開発を優先する論理は途上国では支配的であり、もし被害者が泣き寝入りし、住民が異議申し立てや抗議をしなければ、公害対策は後回しにされてしまうからである。
 例えば、企業は利潤の論理で動いているから、自ら進んでコストのかかる排煙や排水処理のための設備を整えたりすることがあり得ない。また、行政も開発優先の政策を採っているため、よほど深刻な公害病などの事態がない限り、本気で公害対策に取り組むとは思えない。
 健康で安全な暮らしができるかどうかは生存権に関わることであり、つまり環境権とは基本的人権である。このことを人々が自覚することから始めなければ、解決の道はないのである。

解答例2 環境ODA(397字)
 私は先進国からの環境ODAや技術援助が最も大切だと思う。
 なぜなら、途上国に住む私たちは空気や水の汚染のひどさは身をもって知っているし、行政も公害対策の必要性も十分に知っていながら、それができない現実があるからである。
 例えば、途上国の貧しい家庭は生きていくのがやっとの状態であり、汚染されているが安い魚と汚染されていない高い魚のどちらかを選べと言われたら、生きるためには汚染された魚を選ぶしかない。また、多くの企業は、高額な公害対策設備を購入せよと言われたら、倒産するしかない。倒産すれば多くの従業員が路頭に迷う。雇用か環境か、途上国はこのジレンマから抜け出せないのいるである。途上国ではきちんとした公害対策をしたいと思っても、それを自力で実施するだけの資金が国家にも企業にもないのである。
 従って、先進国からの環境ODAや技術援助抜きに公害問題は解決できないのが、途上国の現状なのである。

2) 大学受験小論文問題
問題1 テーマ式
 現代の大量消費社会では、資源・エネルギーの不足と廃棄物の増加が問題となっています。あなたはこれらの問題を解決するためにはどうすればいいと考えますか。1200字以内で書きなさい。

解答例  全世界的な「循環型社会」への移行しかない(1198字)
 産業革命以来の大量生産・大量消費は公害を生み、産業からも一般家庭からも大量のゴミを発生させ、今や海岸や山間地はゴミで埋まり、有害物質の越境移動問題も引き起こすまでになっている。また、石油をはじめとする天然資源の大量消費は、地球規模で大気や水質や土壌を汚す地球環境問題を引き起こしている。これらを解決するには、使い捨て社会を見直し、環境にできるだけ負担をかけない全世界的な「循環型社会」への移行を進めるしかないと考える。
 なぜなら、大量生産・大量消費型経済こそ、世界的に地球環境問題を引き起こしてきた元凶であり、冷戦終結後の現在では、市場競争経済のグローバル化とともに、この「資源浪費型ライフスタイル=豊かさ」という価値観は途上国にも蔓延し、それが環境破壊のグローバル化となっているからである。その一方では、この大量生産と消費を支えた資源の枯渇が眼前に迫りつつあるからである。
 例えば、今後の人口増を計算すると、原油資源も数十年で底をつくことが明らかになっている。しかし、途上国は発展のためにも一層のエネルギー資源を必要としているし、生活水準の向上に伴って、自動車台数も、各家庭が保有する家電も増加の一途をたどっている。それは必然的に温室効果ガスの増加をもたらし、地球温暖化や酸性雨をもたらし、更に地球環境の破壊を加速させるという悪循環になる。しかし、地球人口の三分の一に満たない先進国の人々が「豊かさ」を享受し、他方では貧困や「飢餓」にさえ苦しむ途上国が存在するという不公平が残り続ける限り、途上国は「発展の権利」を主張し、先進国と対立する構図は続く。この対立の構図が続くとすれば、資源の枯渇が眼前に迫るにつれて、各国が資源を奪い合い、弱小国はますます没落して飢餓が拡大し、全世界的に貧者と富者の対立を激化さるという最悪のシナリオとなり、人類は再び「野蛮への逆戻り」しかねない。それが21世紀である。
 これらを解決するには、まず先進国が率先して資源とエネルギー浪費型の生活スタイルを改め、資金と進んだ環境保全やリサイクル技術を開発途上国に提供し、全世界的な「循環型社会」への移行を目指すことだろう。地球には60億人を越す人類が先進国並みの「豊かさ」を享受できるだけの資源もなく、その環境負荷に耐えられる力がない以上、人類が生き残るためには「分け合う」ことを学ぶ必要がある。
 従って、全世界的な「循環型社会」への移行しか人類が生き延びる道はない。それは私たちが追い求めてきた「豊かさ」、つまり現代文明そのものの問い直しになる。おそらく21世紀は「理性か欲望か」という人類最大のテーマをめぐって、時代が展開されることになるだろう。もし人類が全世界的な「循環型社会」への移行に失敗するなら、いずれ有限の地球資源を食い尽くし、自然生態系を破壊し尽くすことになり、人類には破滅の道しか残っていないのである。

問題 課題文式
 次ぎの文章を読んで、1〜2の質問に答えてください。
 地球温暖化問題は、アメリカの批准拒否にみられるように、先進国内部でも意見対立はあるが、これとは別に、南北対立の構造も明らかに存在している。
 1992年6月に、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで「環境と開発に関する国連会議」(地球サミット)が開催されたが、先進国と途上国の利害関係がぶつかり合う場となった。たとえば、地球温暖化を防止するための「気候変動枠組み条約」の内容を見ると、責任論、目標設定にかかわる問題、資金援助・費用負担問題、解決のための手段のあらゆる問題で、利害の対立が現れていることがわかる。
 論点の第1は、「発展の権利」と責任論であり、交渉過程で先進国側は「汚染者負担の原則(略称PPP)」にたって、CO2の排出量に応じて各国が共通の責任を負うべきだと主張した。それに対して、途上国側は気候変動の原因はこれまでの先進国の経済活動にあるのだから、温暖化対策の責任は先進国にある。途上国各国には「発展の権利」があり、そのためエネルギー消費量が増加するのは当然である。先進国が行う資金援助はこれまでの地球温暖化をもたらした先進国の当然の補償であり、途上国としては先進国の援助があれば、その範囲内で排出量の抑制対策をとると主張した。
 論点の第2点は、温室効果ガス排出量の抑制のあり方、および抑制の目標設定にかかわる問題である。ECや日本など先進国の大部分は排出抑制の目標値を設定することに賛成し、先進国共通の目標として「1990年レベルに排出量を抑制し、2000年以降安定化させる」とした。だが、アメリカは、目標値に科学的根拠がない、対策費が多くなる、温室効果ガス排出量では第二の中国など途上国が抑制に消極的であるなどを理由に、目標設定に難色を示した。その背景には、アメリカ自身のエネルギー浪費型の構造の改革にただちに取り組むとなると、経済再生の足かせとなるのではないかという懸念があるように思われる。
 第3に、技術移転と資金援助の問題である。先進国側は技術移転問題で環境保全技術をできるだけ有利な条件で提供するとしたのに対して、途上国側は、特恵的、ノンコマーシャルベースの移転でなければならないと主張した。また、資金援助に関しては、先進国側は世界銀行、国連環境計画、国連開発計画が管理をしている「地球環境基金」( 略称GEF)に基金を積み、その基金で資金援助をすると提案した。しかし途上国側は、GEFは先進国の代理組織であるとして、新組織の創設を要求して議論は紛糾したのである。この論争の背景には、そもそも国際公共財論と資源主権論という2つの考え方の対立がある。途上国側は、技術移転や資金援助を国際公共財とする考え方を基本的には受け入れておらず、資源を利用して発展する固有の権利を第一義的にもっていると主張する。これに対して、先進国側は「汚染者負担の原則」にたって、途上国にも一定の責任があると主張するので、両者間に妥協点をみいだすのは困難なのである。
 結局、条約は双方の意見を少しずつ取り入れ、「共通だが、差異ある責任に基づく気候の保護」「先進国の先導的防止対策の原則」という妥協の産物となった。しかし、途上国の「発展」の権利は認め、その内容は「持続可能な発展」であるとしている。
 こうした対立を克服し地球温暖化をはじめとする地球環境問題を解決するには、全地球的視野での環境政策の原理や手段が構築される必要があり、そのためにも世界経済システムを環境保全型にするための構造的な改革が避けて通れない。これまで意識されてこなかった国際公共財としての地球環境を保全するための費用負担システムも確立される必要があろう。つまり、途上国の発展の権利、エネルギーを一定量消費して工業化を進めるのは当然の権利であるという前提から出発する必要があり、将来の被害を免れうるという意味での受益があることを根拠に、途上国の公害防止費用の一部あるいは全部を負担するという考え方も一考の余地がある。持続可能な発展の理念は、途上国が自立的な経済基盤を基礎に発展していく権利を保障しつつ、国際的次元で地球環境を保全していく社会システムを確立ことを通して具体化されなければならないのではあるまいか。

問題1 地球温暖化を防止をめぐる先進国と開発途上国の対立点はどこにありますか。以下の表を完成させてください。
              途上国          先進国
    原則上の対立    発展の権利   (             )
    責任の所在              共通責任・応分の負担
    環境保全技術移転 (      )  できるだけ有利な条件で提供
    資金援助      新組織の創設  (             )

問題2 筆者の意見に対するあなたの意見を800字以内で述べてください。

解答例  賛成意見(795字)
 筆者は「地球温暖化を防ぐためにも、途上国が自立的な経済基盤を基礎に発展していく権利を保障しつつ、途上国の公害防止費用の一部あるいは全部を負担するなど、国際的次元で地球環境を保全していく社会システムを確立する必要がある」と提案しているが、私は筆者の意見に賛成である。
 なぜなら、第一に、これまで地球温暖化に一番責任を負っているのは、産業革命以来、ひたすら経済成長を追い求め、エネルギーと資源の大量消費をしてきた先進工業国だからである。第二に、この問題の解決は南北問題の解決抜きにはないからである。
 例えば、中国が本格的な「工業化」段階に入ったのは、70年代末、外資の導入を奨励した「改革開放政策」が採用されて以降である。確かに、今の中国のCO2の排出量は、アメリカに次いで世界第二位であり、21世紀には世界第一位の温室効果ガスの排出国になると言われているが、そのCO2排出の主役は外資系・多国籍企業である。もし、これらの企業が自国と同じ環境基準を適用していたとすれば、事態はこれほど悪化していなかったはずである。
 では、中国人が「より豊かで快適な生活」を求めるのは悪なのだろうか。地球上の誰もが同じように貧しければ、誰も誰かを羨むことはしない。だが、地球の三分の一にも満たない先進国の人たちだけは豊かさを享受しながら、多くの発展途上国に「貧しくても我慢しろ」という論理は成り立たない。しかも中国は、国を挙げて大気汚染や砂漠化といった環境問題に取り組んでいるし、「一人っ子政策」も採用し、地球人口問題にも貢献している。しかし、そこに立ちはだかっているのは、十分に環境を保全する設備を調える経済的余裕も技術力も不足しているという現実だ。
 従って、私は、先進国の進んだ技術と豊富な資金が、「国際公共財」として途上国に有効に活用できるような国際的な援助システムが、今何よりも必要とされていると考える。
 
解答例  反対意見(799字)
 筆者は「地球温暖化途上国の公害防止費用の一部あるいは全部を負担するなど、国際的次元で地球環境を保全していく社会システムを確立する必要がある」と提案しているが、私は筆者の意見はあまりに無原則だと考える。
 なぜなら、第一に、途上国側は地球温暖化の責任の一切を先進国に負わせ、自らの責任を放棄しているからである。途上国の「発展の権利」は認めるが、環境破壊の権利までは認められない。第二に、環境保全やリサイクル技術についても、その開発には膨大な資金と研究者の努力が投じられているからには、知的所有権が保障されるべきだからである。
 例えば、先進国がCO2の削減に踏み切っても、途上国がそれを上回るCO2の排出を続けるとしたら、地球温暖化は加速する。また、過去の地球温暖化の責任を第一義的に先進国が負うことは当然だが、途上国から排出されたCO2による地球温暖化も存在するのであり、それぞれが応分の責任を分担をするというのは当然のことである。つまり、「汚染者負担の原則」と「人類共通の責任」という原則が必要である。
 では、どうすればこうした原則上の合意が成り立つのだろうか。先ず、先進国側はアメリカのような国家エゴを許してはならないことだ。その上で、「汚染者負担の原則」にたって、CO2の排出量に応じて各国が共通の責任を負うという国際社会の合意を築くことだ。そして、各国が自助努力で可能なことは何か、自助努力でできないことは何かと、具体的に出し合い、自助努力でできないことを「国際公共財」として国際機関が提供することだ。基金は国連分担金のように国力に応じて各国が分担し、技術はその基金で開発者から買い上げ、必要な資金と技術を途上国に提供するという仕組みが考えられる。
 従って、私は、まず「汚染者負担の原則」と「人類共通の責任」の原則が確認されねばならず、それがなければ筆者の意見も「絵に描いた餅」になると考える。


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